2011年3月12日。
日本中が、前日の未曾有の大災害をまだ受け止めきれないまま朝を迎えました。
前日、3月11日14時46分に発生した東日本大震災。
テレビやインターネットには、津波にのみ込まれる街、崩れ落ちる建物、行方不明者を探す人々の姿が流れ続け、言葉を失う光景が広がっていました。
川口市も例外ではありません。
直接的な大きな被害は免れたものの、強い揺れを体感し、交通網は混乱し、多くの人が帰宅困難となりました。
そして翌12日、市内は「日常」と「非常」の間にある、独特の緊張感に包まれていました。
■ 翌日のニュースが伝えていた現実
3月12日の朝のニュースは、すでに「国内最大級の地震災害」という言葉で統一されていました。
・死者・行方不明者が急増していること
・東北沿岸部が壊滅的な被害を受けていること
・福島第一原発で異常事態が発生していること
・計画停電の実施が検討されていること
どれもが、これまでの日本では想像しにくい内容でした。
特に原発のニュースは、市民に大きな不安を与えました。
「電気は止まるのか」「放射能は大丈夫なのか」
正確な情報が少ない中、不安だけが先に広がっていったのがこの日の特徴でした。
■ 川口の街の様子
川口駅周辺や商業施設では、次のような光景が見られました。
・スーパーやコンビニで水や食料、乾電池が次々に売り切れる
・ガソリンスタンドに長蛇の列
・携帯電話がつながりにくい状態が続く
・人々の会話が自然と「地震」と「被災地」の話題になる
街は普段通り動いているようで、どこか静かで、重たい空気が漂っていました。
「何かしなければいけない気がする」
「でも何をすればいいのかわからない」
多くの市民が、そんな感情を抱えていた一日でした。
■ 行政・自治体の動き
各自治体はこの日から、本格的な対応に追われました。
・被災地支援の検討
・防災体制の再点検
・公共施設の安全確認
・節電や物資確保への協力要請
川口市もまた、直接の被災地ではないからこそ「後方支援」として何ができるのかを模索し始める段階に入りました。
この日を境に、「防災」は一部の人のテーマではなく、
すべての市民の現実的な課題として意識されるようになります。
■ 市民の心に生まれた変化
震災翌日のニュースは、多くの人の価値観を揺さぶりました。
・当たり前の日常が、突然失われること
・命の重さ
・家族や人とのつながりの大切さ
・地域で支え合う意味
これらが、一気に現実のものとして突きつけられたのです。
川口の街でも、
「何かできることはないか」
「募金や支援に協力しよう」
という声が少しずつ聞こえ始めました。
この“翌日”は、単なる次の日ではなく、
日本全体が新しい現実に向き合い始めた「最初の日」だったと言えます。
■ 後に続く長い影響の始まり
この日の時点では、まだ誰もが被害の全貌を知りませんでした。
しかし後に、
・甚大な人的被害
・長期避難生活
・原発事故による社会不安
・エネルギー政策の転換
・防災意識の大きな変化
へとつながっていくことになります。
2011年3月12日は、
「日本が災害大国であることを、改めて突き付けられた日」
であり、
「私たち一人ひとりが、防災を自分事として考え始めた日」でもありました。
■ 今、振り返る意味
あれから年月が経ち、記憶は少しずつ風化していきます。
しかし、震災翌日のあの空気感、あの不安、あの静けさは、
防災や地域づくりを考えるうえで決して忘れてはならない原点です。
「何も起きていない今こそ、備える」
それを教えてくれたのが、2011年3月12日という一日でした。



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